標題・分類

世界初の送電線誕生の物語
The world's first power transmission line

2013.06.28  更新

目次

1.世界初(世界最古)の送電線誕生の物語
 (The world's first power transmission line)


2.世界初の超高圧(220KV)送電線誕生の物語  (The world's first 220kV power transmission line)
     
    ピットリバー線の写真追加掲載(2010.08.10)

    ビッグクリーク線ルート情報追記(2010.12.17)    

3.世界初の複導体送電線誕生の物語     
  (A story of the world's first bundule conductors power transmission line birth)


更新履歴(2007.02.17以降)

更新年月日 更新内容
2007.02.17 世界初の送電線誕生の物語新設掲載
2007.04.15 世界初の超高圧(220KV)送電線誕生の物語・予告
2007.04.19 世界初の超高圧(220KV)送電線誕生の物語・プロローグ掲載
2007.04.26 世界初の超高圧(220KV)送電線誕生の物語 掲載完了
2007.06.17 解説文全面的に見直し修正
2009.09.02 冒頭に英文追加
2010.02.22 ピットリバー送電線のがいし設計情報等追加
2010.06.01 ピットリバー送電線の写真追加(懸垂鉄塔)
2010.08.10 ピットリバー送電線の写真追加(耐張鉄塔)
2010.09.03 世界初の送電線経過図更新
2010.12.17 ビッグクリーク線ルート情報追記
2013.06.28 世界初の複導体送電線誕生の物語

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世界初(世界最古)の送電線誕生の物語 
The story that the power transmission line of world's first (oldest the world) was born

The real power transmission line of world's first (oldest the world) was built experimentally to transport electricity to the place of the Frankfurt International Electric technology exhibit in 1891.
The power transmission line linked 175km between the hydroelectric power station of Lauffen to Frankfurt.
The design of the power transmission line used 3 phase alternative current method. It was a great success.
Because 3 phase alternative current method was extremely effective, the electric method became the standard method worldwide today.
 現代の生活に欠かせないインフラの一つ、電力エネルギー輸送の大動脈に用いられている「三相3線式交流送電線」は、極めて効率的な送電方式であり、これに勝る大電力輸送インフラは、今後科学が更に発展し直流・超伝導送電線が候補に挙がることも考えられるが、膨大な建設費がかかると思われるので、まず我が国では実現しないと言ってもよい。

 この便利な「三相3線式交流送電線」がどのようにして誕生したのか、技術者にとって興味のある逸話があるので紹介する。

 先ずは、今から約130年前(明治10年代)にタイムスリップする。



プロローグ(1880年代の電力技術)

 まず始めに、電気事業の発端となったのは、1878年(明治11年)、炭素フィラメントの電球を発明王のエジソンが発明したことである。
 1882年(明治15年)には彼はニューヨーク市で初の発電所を建設し、この電球を用いた本格的電気事業を開始している。

 ちなみに、我が国では東京電灯が1883年(明治16年)設立され、1887年(明治20年)に架空線による電気供給事業を開始している。

 1880年代は、世界各地で次第に電灯需要を目的とした電気事業が興ったが、人馬や蒸気機関に代わる原動力・モーターとしての電気利用も次第に発展した。

 この時代の電気方式は、はじめはエジソンの開発した直流方式であったが、一方では交流の発電機、電動機、変圧器などが開発され、交流方式の電気事業も興った。

 電気事業の草創期には、電力供給方式として直流か交流かをめぐり、技術者は大きく二つの陣営に分かれた。
 直流方式を主張するのは、アメリカでは発明王のエジソン、イギリスではケルビン卿、クロプトン、ホプキンソンなどで、交流方式を主張するのは、アメリカではウエスティングハウス、テスラ、C.P.スタインメッツ、イギリスではフェランティ、ゴードン、S.P.トムソン、ドイツでは
ドリヴォ・ドブロウォルスキーなどであり、両者の間では激烈な論争が交わされた。


 また、交流方式についても単相交流、2相交流、3相交流のいずれが有利であるかの激論が交わされており、更に周波数も初期には[133. 1/3]、[125]、[83. 1/3]、[66. 2/3]、[60]、[50]、[40]、[30]、[25]、[16. 2/3]ヘルツ(Hz)などが使用され、供給電圧も多種に亘った。

 いずれにしても、当時は発電所を中心にして、狭い範囲のネットワーク配電またはリング配電であった。


 ただ、なかには、下記のような、本格的送電線の前ぶれとなる、低い電圧での線路建設記録がある。
1882年(明治15年)に、ドイツの、フォン・ミラーがミュンヘン電気博覧会で、バイエルン・アルプスのミースバッハから57Kmにわたる直流送電線を、フランスのマルセル・ドプレに設計依頼して建設(電圧不詳、構造物は電信線を使用)した。
1886年(明治19年)にアメリカ、バッファロー市で、初の商業目的の1,000V交流送電線が建設された。
1889年(明治22年)にウエスティングハウスが、オレゴン州で4,000V交流送電線を20Kmにわたり建設した。

 しかし、いずれも現在の配電線規模のものであったと思われる。


 このように、電力事業の電気方式は交流か直流か、さらに交流でも単相、2相、3相か、また周波数は十種類ほどもあり、混沌とした状況の中で、この物語の立役者となるドイツのAEG(Allgemeine Elektrizitaets Gesellshaft)に勤務していたドリヴォ・ドブロウォルスキー(Dolivo. Dobrowolsky,1862-1919、ロシア,ペテルブルク生まれ)は、3相交流電気方式の将来性、有利性(回転磁界が作れ、効率的送電が出来る)を認識して研究をしていた。(右図)

 他方、フリードリッヒ・ハーゼルワンダーは、高電圧送電方式を可能にする変圧器を備えた2相および3相システムを考案して、1887年(明治20年)には、3相巻線をもつ発電機を製作し、それを使って、電灯需要に供給した実績を挙げた。
 また、同時期には多相電動機、多相発電機、送電システムの発明を行ったとして特許優先権を主張した発明家・技術者はテスラ、フェラリス、ブラッドリーなどがいた。

 しかし、電動機と発電機の両方を含む経済的な多相交流システムを開発することはこれらの発明・技術者単独では出来ず、結局電機メーカーがその主導権を握ることとなった。

 電機メーカーAEG勤務の
ドリヴォ・ドブロウォルスキーは、テスラ、フェラリスの多相交流に関する発見・発明を知り、1889年(明治22年)、若干28才の時に3相交流発電機を考案し、更に3相誘導電動機、3相変圧器も発明し、3相電力を用いた電力事業に必要な基本的要素である諸機器を製作することに成功した。
 続いて3相交流システムを確立するための結線方式についても研究し、3相4線式交流結線方式を編み出した。

 その時期には、アメリカ、ドイツの電気事業者および電機メーカーが効率の良い電力システムの導入に対して試行錯誤を行っていたが、1891年(明治24年)に開催されたフランクフルト・アム・マインでの国際電気技術博覧会で展示された電力輸送方式が採用するべき交流システムとして決定的な影響を与えることとなった。


世界初(世界最古)の本格的送電線建設と運転

 すなわち、1890年(明治23年)にドイツのフランクフルト市は、市営の電気工場にどんな電気を使うか、決めることになった。
 その頃、ドイツでは殆どの都市での電気事業は直流を採用していたが、交流の有利性を主張する技術者たちの主張が次第に大きくなっていた。
 顧問としてフランクフルト市に招かれた電気技師たちは、交流か直流かの割り切った推薦が出来ず、困った市としては市の最有力者の「交流を弁護する人々が、そのシステムの最新の進歩を実証できるような電気技術博覧会を開催して結論を出すのがよい」との提案に基づき決めることとなった。

 この提案に基づき、フランクフルト国際電気技術博覧会は1891年(明治24年)に開催されたが、そこで大いに貢献したのが、次の3人であった。


・オスカー・フォン・ミラー
ミュンヘンの顧問技術会社社長で、かつネッカー川岸のラウフェンにあるセメント工場代表者であり、土木・電気技術者。
1882年(明治15年)のミュンヘン電気博覧会で、バイエルン・アルプスのミースバッハから57Kmにわたる直流送電線を建設した。
本博覧会では、技術ディレクターに指名された。

・シャルル・ウージェーヌ・ランスロ・ブラウン
マシーネンファブリーク・エルリコンの電気機械部門の技術ディレクターであり、高電圧交流送電システムの実験テストユニットを会場に展示し、40KV迄送電電圧を上げても油入変圧器が充分機能することを示した。
ドリヴォ・ドブロウォルスキー
ベルリンの電機メーカーAEGに勤務し、3相交流の機器を開発していたが、それらをこの博覧会で建設することとなった3相交流試験送電システムに、自らが開発した機器を提供・使用した。
また、その3相交流試験送電線の建設に当たり、自分の研究成果を踏まえ具体的設計を行った。
 このフランクフルト国際電気技術博覧会では、交流システムの最新の進歩を実証するために3相交流試験送電線を実際に建設することとなった。


 
 起点となる発電所


 起点となる発電所は、下記の理由でフォン・ミラーが代表者を務める、ネッカー川岸のラウフェンにあるセメント工場とした(右図・送電線経過図及び下記(注)参照)。

 ラウフェンには滝があり、その高低差を利用してセメント工場では3台のタービンを設置しており、その内の2台はセメント工場向けのもので、既に発電機が設置されて稼働していた。
 あとの1台は、9Km程下流のハイルブロンに中央駅を建設することとなったが、その電源用発電機に前述の
ドリヴォ・ドブロウォルスキーの交流発電機を設置して5,000Vで送電し使用する予定であった。

 しかし、その時点では未だ使用していなかったので、そこに3相交流発電機を設置してフランクフルトまで直線距離で約130Kmの間に送電線を建設し、博覧会場に送電することとした。

 タービンは水頭約3mで300馬力で、博覧会のモデルシステムとしては、技術者達が考えた標準よりもかなり小さかった。
 しかし、この場所が試験送電線としての送電距離が適切で、タービンが設置済みである利点を考えて決定された。


 発電機は出力電圧50V、相電流1,400Aでおよそ200KWの出力であった。
 変圧器は、巻線比1:160で、発電機の相電圧45Vのとき線間電圧は約78Vであり、高圧・送電線側の電圧は12,500V、変圧器を2台直列に使用したとき25,000Vであった。



(注):Google Earthの画面で当時の発電所を探したが、残念ながら見あたらなかった。
 しかし、下記座標文字列の場所に現在でも当時の工場と思われるセメント工場が有り、オスカー・フォン・ミラーの名前を付けた道路(Oskar-Von-Miller-StraBe)があるので、発電所はその付近に有ったものと思われる。
Google Earth座標文字列:「
49 04 37.71 N 9 09 44.74 E

 この座標文字列をコピーして、Google Earthの検索窓に貼り付けると画面は自動的にセメント工場に移動してくれる。




 発電機は右写真に示すが、タービン回転数は毎分50回転で、それに1:3の円錐形ギアを介して150回転に増速させて40Hzの3相交流を発電している。

 発電機の出力は、写真の奥に見える配電盤を通して変圧器の一次巻線に接続されている。

 発電機と変圧器の間の結線は、ドリヴォ・ドブロウォルスキーが編み出した3相4線式(スター)結線で、中性線が接地されている。

 安全装置としては、鉛と雲母で作られたヒューズと、励磁回路を遮断する電磁遮断器が、配電盤に設置されている。

 送電線の経過ルートと構造
 送電線の経過ルートは上に掲げた「送電線経過図」に示したとおりで、発電所からフランクフルト・アム・マインの博覧会会場まで線路こう長175.1Kmのルートである。
 送電線ルートはほぼ鉄道線路に沿って選定され、鉄道の各駅の近くを経過するようにルートが設定された。

 この送電線は、政府の電信局によって建設された。
 また、この送電線路の建設費用と用地の提供は、連邦および地元政府が行い、更に博覧会当局は多面的に援助を行った。

 送電線支持物は木柱を用いて建設し、その構造は右図のごとくである。

 
ドリヴォ・ドブロウォルスキーは、発電機と変圧器間の結線は3相4線式結線を行ったが、送電線については3相3線式(変圧器中性点直接接地方式)であった。

 木柱は標準スパンが60mで、こう長175Kmの間に3,227本を建設した。
 電線高さは、下部2条のがいし位置で5mの最低地上高を確保するようにした。
 電線間隔は正三角形配置で、各電線間隔を全て1mとした。

 
電線は、直径4mmの硬銅単線を使用し、最大電流を8〜9アンペアと見込んだ。
 その抵抗値は1.24オーム/Kmであり、全線では217オームになり、8〜9アンペアの電流が流れると電圧降下の値は約1,600〜1,800Vとなった。

 当初は直径6mmの電線を使用する予定であったが、建設費用がかかりすぎるので、直径4mmの電線を採用したとのことである。

 この送電線の高圧側回路は、発電側の変圧器から受電側の変圧器まで電線を直結しただけで、遮断器・スイッチ等の開閉機器は全く設置されていなかった。
 当時の技術では、高圧回路を開閉する機器は開発されていなかったようだ。
 もちろん、前述のように発電機低圧側にはヒューズと励磁回路を遮断する電磁遮断器があったものの、送電線緊急時にはどのようにして送電を停止させるかが大きな問題点であった。

 この対策として、送電線の出発点に、各相毎に直径0.15mm、長さ2mの銅線を2条平行に施設してそれをヒューズとした。
 更にルート上の鉄道各駅近傍等の場所に、3相にまたがる大きな逆V字形の電線接地金具を3相電線直上にコードで吊り、緊急時にはコードを緩めれば3条の電線の上にそれが落下して、全相がショートしてヒューズが切れ、線路停止する装置を取付けた。


 がいしは磁器製ピンがいしで、右図のごとく大型と小型のものの2種類を使用した。
 がいしの耐電圧は30KVで、全てのがいしに30KVを課電して耐圧試験し、合格したものを使用した。
 しかし、耐電圧試験では多くのがいしが課電部分と指示棒の間でフラッシオーバして不合格となったとのことである。


 大型のものは、2ピースを組み合わせたもので、内側の磁器には3つのひだがあるが、そこにオイルを満たして使用した。
 また、小型の方は、単ピースでその内側に設けたひだにやはりオイルを満たして使用した。

 がいし笠径の情報はないが、大雑把に推定すると大型がいし直径は200mm内外、小型がいしは120mm内外と思われる。

 このように2種類のがいしを使用することになった理由は、大型がいしの製造が間に合わなかったためで、時間的余裕があれば全て大型のがいしを使用したはずである。
 
 大型のがいしは、製造過程で磁器を焼成した後急速冷却させたために磁器内部にひずみが蓄積されてクラックが発生し、建設の段階で多くの不良品が見つかって除去された。
 そのころの磁器製品は、磁器自体の品質が良くなかったことも原因になっているようである。

 これらがいしの使用区分は、発電所側の56Kmに対して大型のがいしを約3,000個使用し、そこからフランクフルト側には小型のがいしを約6,500個、合計約9,500個を使用した。

 なお、大型のがいしについては、ルートの近傍に住む少年達の格好な投石の的になって多くの破損被害が出るのを予想し、目立たないように黒とか暗い色にしたそうである。


     博覧会場の様子

 右写真は博覧会場の様子である。

 発電所および博覧会場における諸機器、すなわち発電機、昇圧変圧器、降圧変圧器、電動機は、電機メーカーのマシーネンファブリーク・エルリコンとAEG(
ドリヴォ・ドブロウォルスキーによる開発品)が分担して提供した。

 博覧会場では、電圧を60〜70Vに降圧して16カンデラ(55W)の電球約1万個を点灯させ、また、モーターで水をポンプアップして人工の滝を作ったり、各種のモーターを用いた展示を行った。



 写真は、ドリヴォ・ドブロウォルスキーが開発し、「Drehstrom(回転電流)」と名付けた3相交流による回転磁界を利用した、3相誘導電動機(100馬力)(手前左側)である。
 この展示コーナーでは3相交流方式が、直流および単相交流方式に比して有利であることを説明している。
 すなわち、当時としては直流または単相交流方式に比較し、極めて小型でコンパクトなのが特徴で、その有利性を示している。
 右側にあるのは、約10mの高さに水をくみ上げるポンプで、モーターに直結し人工滝に水を循環させるものである。



 写真上部の地図は、世界初の3相交流送電線経過地の地図である。(方位は右が北)
 左端下部の白丸がラウフェン水力発電所、ネッカー川がそこから斜め右上に上って流れている。
 送電線の終点のフランクフルトは、地図の右上角だが、ちょうど照明ランプの陰に隠れている。

 世界初の3相交流送電線は、左端発電所から右に延びて右端のランプで隠れたフランクフルトまで、こう長175Kmの長距離にわたって建設されたことを示している。(前述の送電線経過地図参照)


 送電線の試験運用
  この試験送電システムが稼働したのは、1891年(明治24年)8月24日で、博覧会が間もなく終わる直前であった。

 博覧会に来ていた多くの電気技術者たちは、送電線のがいしと電線のコンデンサ効果、およびインダクタンスによる電流位相遅れなどの原因で、オームの法則に見られない大きな損失が生じ、せいぜい送電効率が50%程度であろうと予測していた。
 しかし、
25KVの電圧で190馬力(約140KW)を送電したところ博覧会の降圧変圧器の低圧側で測定した効率がなんと 74.5%と高効率であったため技術者達は驚き、充分実用になるとの高い評価を獲得した。

 博覧会当局者達は、初めには
30KVまで電圧を上げて送電する予定であった。
 しかし、約1万個のがいしが30KVで耐圧試験されたものなので、不安が大きかったが、実際に30KVで運転してみると、たった1個だけフラッシオーバしたものがあっただけであった。

 試験送電期間中に使われた送電線電圧は、平均して
16KV
であった。

 また、この試験中、電線の断線による線路停止と磁器内部にひずみが蓄積され、クラック発生による大型がいしの破壊で、線路停止した2件の不具合があった。

 ところで、小型がいしは試験運用期間中、フラッシオーバによる破壊を発生させたが、それでも大型がいしの製造が間に合わなかったため、大量に使用せざるを得ない状況であった。

 なお、前に述べたように、鉄道各駅近傍等の多くの箇所に3相にまたがる大きな逆V字形の電線接地金具を3相電線直上にコードで吊って、緊急時にはコードを緩めて3条の電線の上にそれが落下して全相をショートさせる安全装置がある。 そこで、送電線保線作業では、作業前にかならずそれが電線に接触していることを確認した上で、作業を開始することになっていた。誠に原始的だが確実な安全装置であった。

 この試験送電では、晴雨天時のがいし漏洩電流値、負荷を解放したときの送電線無効電力値とか、経済計算も含め、貴重な数々のデータが取れ成功裏に試験を終了した。



 さて、需要地の中心付近に発電所を設けて、狭い範囲のネットワーク配電またはリング配電で電力を供給する従来方式に対して、このシステムは遠く離れた発電に適した地点から、人口密度の高い需要エリアに送電する「点対点送電・Point to Point送電」と呼ばれ、将来性を期待される基準となるシステムとして高く評価された。


エピローグ(試験送電線の活用と、その後の電力技術の確立)


 博覧会で高い評価を得た試験送電システムは、博覧会終了後は発電所はハイルブロン市が所有することとなり、2台の 3相交流発電機でフランクフルトとハイルブロンに、世界初の実用的商用3相交流送電システムとして電力を供給した。
 この送電線は電圧15KVで営業運転された。

 
 この博覧会での
ドリヴォ・ドブロウォルスキー開発による3相交流送電システムの成功により、1900年以降は世界的に3相交流の時代に入った。
 しかし、アメリカでは、ナイヤガラ発電所の2相方式が一時的に有望視され、3相交流はヨーロッパに比べて少し遅れた。

 なお、この博覧会での3相交流送電システムで採用された周波数40Hzは、ドイツでは標準としては採用されず、AEGが低速度の50Hz直結型発電機を推し進めていたことなどが影響し、50Hzが標準となった。
 またアメリカでは、ウェスチングハウスが設計した大多数のシステムが60Hzで、その60Hzで良く動く同期変流機が開発され、原動機として高速のタービンが導入されり、さらには多くのエンジニアが、広範な利用に適する周波数と言うことで、推奨した60Hzが標準となった。

 このドイツとアメリカが採用した周波数の違いは現在まで世界的に多大な影響をもたらし、世界の各国はそのいずれかを採用している。
 我が国ではそのどちらにも収斂できず東西を2分し、東半分がドイツの50Hz、西半分がアメリカの60Hz、の機器を輸入使用した当時の周波数をそのまま現在でも使用している。

 参考文献
・Electrical World 1891〜1892 における Carl Hering の記事
・電気学会雑誌第39号(1891.11.20・明治24年発行)
・電力の歴史 Thomas Parke Hughes 著 市場泰男訳 平凡社
・新版・電気の技術史 山崎俊雄、木本忠昭共著 オーム社




世界初の超高圧(220KV)送電線誕生の物語
The story that the 220kV power transmission line of world's first was born

Electricity was gradually used in the power source such as a railroad and the factory, and, as a result, in 1900-1910 generations, the electricity demand in the big city increased at an unbelievable rate.
The construction of the large-capacity hydroelectric power station was performed at that time in many parts of the world.
The geographical condition of the large-capacity hydraulic power generation is the mountainous area where abundant quantity of water and a high drop are provided.
Most big cities developed on the coastal area plains, and those cities needed a long-distance power transmission line because they were far from the mountainous area.
It was big city of the American West Coast, State of California Los Angeles and San Francisco that the demand was the strongest than world wherever.
There were approximately 300km Sierranevada Mountains which had the perpetual snow which was most suitable for large-capacity hydroelectric power station construction in the distance from the big city.
Because the white snow turned into energy, the people of the big city called it "white coal".
And they earnestly hoped that engineers carried "white coal" to the city.
However,the long-distance power transmission lines needed the high voltage that had difficulty with development.
The engineers challenged development and the construction of an extremely difficult high voltage power transmission line.
The 220kV power transmission line more than 200kV was completed for the first time in the world between Los Angeles that was 390km away from the Big Creek hydroelectric power station at last in 1923.


 1891年に、世界で初めての3相交流送電線が営業運転開始して以来、その効率の良い送電方式が電力流通インフラとして世界的に評価され、1900年代には世界各地で送電線の建設が行われた。

 最適な大容量発電適地から電力需要密度の高い大都市に長距離に亘る大容量電力を送電することが出来る3相交流方式は、直流方式に比較してはるかに利点があり、世界的に3相交流送電時代に入った。
 
 また、電力の需要は初期の電灯需要に対し、次第に鉄道、工場などの動力源として発展し、大都市での電力需要はうなぎ登りに増加していった。

 その頃の大容量発電方式は、まだ火力発電方式では未発達であったので、世界各地では大容量水力発電所の建設が盛んに行われた。
 大容量水力発電の地理的条件は、豊富な水量と高い落差の得られる山岳地帯であり、大都市のすぐ背後にそのような地点が得られるところは希で、殆どの大都市は海岸地帯平野部に発展しており山岳地帯から離れているため、どうしても長距離の送電線が必要であった。

 したがって、多くの電力を効率よく大都市まで送電できる長距離送電線を誰もが要望した。

 その要望が世界の何処よりも最も強かったのが、アメリカ西海岸の大都市、カリフォルニア州ロサンゼルスおよびサンフランシスコであった。

 一方、送電線は、電流を流すとその電線抵抗で発熱するため流せる電流に制限があり、また、その抵抗で電力損失が生じるため、長距離の送電線では送電損失が多くなり距離の制限も生じるため、長距離の送電線は難しい問題を抱えていた。

 この難問に対する唯一の答は、送電線の電圧を上げることであった。
 すなわち、長距離送電線の場合、使用電線の性状が同一の場合、送電電力は電圧の二乗に比例し、送電線長さに反比例するので、多くの電力を送るためには電圧を上げることが唯一の効果的解決策である。

 技術の最先端を行くドイツとアメリカでは送電線の電圧を上げる研究・開発が盛んに進められていたが、高電圧の絶縁、コロナ対策、線路開閉技術など難しい問題が山積していた。


プロローグ(アメリカ西海岸・カリフォルニア州)
 大電力を効率よく大都市まで送電する長距離送電線を世界の何処よりも最も強く渇望したのは、アメリカ西海岸の大都市、カリフォルニア州ロサンゼルスおよびサンフランシスコであったが、そこからこの物語は始まる。

 1900年代の初めには、世界のどの都市でも万能な動力源としての電力を少しでも経済的に得ようとし、そのための長距離送電線を建設していたが、第一次世界大戦が始まる1914年(大正3年)に、70KV以上の送電線を使用していた国は、日本を含む15カ国で、55線路があった。

 ちなみに、日本では、77KV谷村線、110KV猪苗代旧幹線の2線路があった。

 アメリカには55線路のうち半分以上の28線路があり、このうちカリフォルニアには8線路があってアメリカの州では飛びぬけて多くの送電線が稼働しており、カリフォルニアで如何に強く電力を求めていたのかが分かる。

 そして、この55線路の内、大部分の49線路が水力発電所からの送電線で、カリフォルニアの送電線は、全て水力発電所の送電線だった。


 さて、カリフォルニア州では1890年代末の動力源は蒸気機関が主であったが、その熱源材料はオーストラリアから輸入した石炭であり、誠に高価なものだった。

 一方、大容量の水力発電を行う発電適地は、海岸地帯の都市近くには皆無だった。

 そこで人々は、250〜300Km離れた東方の万年雪に覆われたシェラネバダ山脈の、安価な大容量水力電気を町まで届けられないかと考えた。

 その希望を話し合うとき、彼らは水力による電力のことを「白い石炭」と呼んだ。
 まさに名言であった。

 ところで、シェラネバダ山脈は西海岸から250〜300Km内陸にあり、南北700Kmに連なる大山岳地帯である。

 最高標高はホイットニー山4,418mで、4,000mを越える山は9座もある大山脈で、太平洋からの雲が山にぶつかり、多量の降雨雪もたらし豊富な水量の川が多い。

 ちなみに、「シェラネバダ」はスペイン語で「雪の積もった山脈」を意味している。


 以前はその山脈から金が採掘できたものの、大陸を東西に移動するときには山脈が邪魔になり、交通を邪魔する障害物だと考えていた。
 しかし、1900年代に入り、長距離送電線を可能にする技術開発が急速に進み、決定的に重要な絶縁材料のがいしについては、極めて絶縁性能の良い、かつ引っ張り強度の強い耐張形がいし(現在の標準懸垂がいしの原型)をオハイオブラス会社(Ohio Brass Company)が開発した。

 また、支持物も電線地上高を十分に確保でき、かつ強度の強い鉄塔が製作できるようになった。

 一方、土木技術も発展し、険しい山岳地にダム、導水トンネル等が工事可能になり、電力会社は山脈各地に水力発電所を建設し始め、同時に長距離送電線(電圧70KV〜150KV、距離200Km〜400Km弱)を建設し、「白い石炭」の都市導入に成功した。

 これで、シェラネバダ山脈は一躍宝の山になった。

 このような地理的条件から、長距離水力電力送電の時代が始まったのは、世界的にカリフォルニアからであった。

 Electrical World誌は、「カリフォルニアこそ、本物の長距離電力輸送がこの大陸で初めて生まれた場所である」と評価し、「開発の偉大な中心、高電圧エネルギー輸送の実験を輝かしく成功させた世界の実験室」となったと論評した。

 こうして、経済的に動力源が確保されると、鉄道、工場の発展が次第に加速され、電力需要もうなぎ登りに増加した。
 この頃(1900年代初頭)になると、石油による火力も次第に使用され初め、需要増加に対応はしたが、やはり水力が本命であった。

 例えば、カリフォルニア州北部を代表するカリフォルニア・ガス電気会社(California Gas & Electric Company)では、1906年のピーク需要が約47,000KWであったが、7年後の1913年には約118,000KWに2.5倍に増加した。

 また、送電線の長さについては、北部よりも南部の方が長いものが建設されており、
カリフォルニア州南部のパシフィック電灯・電力会社(Pacific Light & Power Company)は、1913年(大正2年)にシェラネバダ山脈の中央部分に位置するビッグ・クリークからロサンゼルスまでの386Kmにわたり、本物語の主題の送電線の前身となる150KVビッグクリーク線を:建設している。


世界初の超高圧(220KV)送電線、ビッグクリーク線の建設
 ビッグクリーク水力発電所地点
 この物語の主題の送電線を語る前に、その電源であるビッグクリーク水力発電所地点について少し解説しておきたい。

 1890年代後半には、シエラネバダ山脈の「白い石炭」を遠い海岸地帯の都市に届けるため、水力発電所の適地調査が各地で行われていたが、シエラネバダ山脈の中央部のヨセミテ国立公園とセコイア国立公園に挟まれた地域で、数年間に亘って熱心に調査をしている男がいた。

 彼の名はジョン・イーストウッド(John.S.Eastwood. 1857-1924)と言い、極めて腕の確かな技術者であった。

 彼は、黙々と道なき道を分け入り、詳細に気象、地形、地質などを調べて回っていた。

 1902年(明治35年)、その膨大な調査結果から、発電所適地としてビッグクリーク地点が最適であると結論ずけ、「ビッグクリークプロジェクト」として発電所建設計画をまとめ上げた。

 このビッグクリーク地点は、サンフランシスコ湾にそそぐ長さおよそ400Kmのサン・ウォーキン川(San Joaquin)の源流地点で、標高1,000m〜2,500mの高標高山岳地であり、4,000m級の山に積もった雪解け水が豊富に流れる川筋であった。

 ちょうどその時期、カリフォルニア南部、ロサンゼルスの電力会社のパシフィック・ライト&パワー会社(Pacific Light & Power Corporation)では、人口急増とそれに伴う電力需要の急増で、地元の火力発電所の出力では対応できない事態が続いていた。

 そこでジョン・イーストウッドの計画に対し、パシフィック・ライト&パワー会社の社長ヘンリー・ハンティントン(Henry.E..Huntington)が社運を賭け資金を出すことを決断して、このビッグクリークプロジェクトは開始された。

 さっそく、幾多の困難を克服して川筋の用地確保と、水利権の確保がなされ、平野部のフレズノ町からビッグクリーク地点までの90Kmに対して資機材および作業員運搬用鉄道の建設が開始された。


 ところで、ジョン・イーストウッドのビッグクリークプロジェクトは、川の水を落差約2,000mの間に最大で9回の発電に利用しようとするもので、約3,000Kuの集水面積(東京都面積の約1.4倍)を有する広大なサイト全体に18の発電所を建設し、その総出力は146万KWになるであろうというものだった。(右図)

 なお、河川の水量は季節変動が大きいので、取水はダムを構築してそこに貯水された水を使用する計画であった。

 その時代、カリフォルニア北部を代表するカリフォルニア・ガス電気会社の最大電力が1913年には約118,000KWであり、カリフォルニア南部、ロサンゼルスの電力会社であるパシフィック・ライト&パワー会社のそれが1911年には56,000KWであつたことから考えると、総出力146万KWと言うのは途方もない壮大な計画であったことが分かる。

 発電所の工事は、1910年(明治43年)に開始され、半年は雪に埋もれる厳しい自然環境の中で、導水トンネル、ダム湖を含む工事が進められ、No1発電所およびNo2発電所が1913年(大正2年)に同時に完成した。


 この発電電力をビッグ・クリークからロサンゼルスまで送電するために1913年(大正2年)、150KVビッグクリーク線が、No1発電所〜イーグル・ロック変電所間386Kmの長距離にわたり建設された。

 この送電線はその時点で、世界初の150KV送電線であり、かつ長さが世界最長の送電線でもあった。

 なお、1917年(大正6年)にパシフィック・ライト&パワー会社はサザン・カリフォルニア・エジソン会社(Southern Californa EdisonCompany)と合併し、社名はサザン・カリフォルニア・エジソン会社となり今日に至っている。
 このビッグクリークプロジェクトについては、本物語の主題ではないのでこの辺で終わるが、さしずめ日本で言えば関西電力が社運を賭けて開発した黒四プロジェクトに相当するもので、アメリカではビッグクリークプロジェクトは有名な話であり、それについて「The story of Big Creek」と言う本(その開発工事に従事した技術者David.H.Redinger著)が出版されている。電力関連技術者には、誠に興味津々!という本で、読み始めたら時間の経つのを忘れるくらい面白い。

 220KVビッグクリーク線建設
 さて、前置きがだいぶ長くなったが本題の世界初の超高圧送電線の話に入ろう。

 150KVビッグクリーク線は、その送電容量が125,000KWでありNo1発電所およびNo2発電所の合計出力96,000KWをロサンゼルスまで送電していたが、ビッグクリークプロジェクトが進行し、No3発電所(75,000KW)およびNo8発電所(22,500KW)が加わることになったため、増加電力をどのようにロサンゼルスまで送電するか検討された。

 サザン・カリフォルニア・エジソン会社では、150KV送電線を新たに建設する方法と、既存の150KV送電線を220KVに改造して運用する方法の両案を比較検討した。

 その結果、後者の方法が700万ドル以上の投資が節減できるので、昇圧の技術的問題点、および営業運転中の設備改造の困難性があるものの、既設設備を改造して送電線を220KV化(送電容量250,000KW)する方法を選択した。

 世界で初めての220KV昇圧に伴い絶縁設計およびコロナ対策上の問題点をどのようにクリヤーするかであるが、1900年代に入り長距離送電線を可能にするための技術開発が急速に進み、決定的に重要な絶縁材料のがいしについては、極めて絶縁性能の良い、かつ引っ張り強度の強い耐張形がいし(現在の標準懸垂がいしの原型)をオハイオブラス会社(Ohio Brass Company)が開発し、既に150KVビッグクリーク線で使用していた。

 コロナ対策については、1899年にウエスチングハウス技師のチャールズ・F・スコットが、高電圧送電線での電力損失に関する論文を出しており、また1903年以降にハリス・J・ライアン(1866〜1934)が多数の論文を発表している。

 さらに、カリフォルニア州サンフランシスコの南部にあるスタンフォード大学では、先駆的な高電圧システムを持つカリフォルニアの電気事業体と産学連携し、盛んに研究をしていた。1926年にはアメリカの大学の先陣を切って高電圧研究所を設立し、ハリス・J・ライアンが研究所長を務めた。

 このように、折よく上記の研究成果から220KV超高圧送電線のコロナ問題は解決され、送電線の実施設計に反映されることとなった。


<基本設計事項>

 具体的には、150KVで使用している外径約25mmのACSR306mu(605,000-circ.mil)電線は、220KVに対応できることが分かった。
 また、がいし装置としては、各がいし連でがいしユニットの数を2個増やすこと(耐張装置では11個から13個に、懸垂装置では9個から11個に)、およびがいし連の電線側にシールドリングを置き、各がいしの分担電圧の平均化を図ると共にコロナ対策を行うことで昇圧対策が十分とれることが分かった。このシールドリングは断面が字形をした鋳造アルミ製品を採用した。

 次に、営業運転中の150KVビッグクリーク線を如何にして220KV化するかの工事工法について、2年に亘って詳細に調査・検討された。


 ところで、この150KVビッグクリーク線は1回線水平配列の2ルート送電線であったので、部分的に1回線を停電させて昇圧工事を行うことが可能であり、仮工事なしで実施することとした。

 (右図:耐張鉄塔完成写真)

 絶縁クリアランスについては、水平配列方式のため電線相互間および電線鉄塔間のクリアランスは余裕があり、220KVにも十分対応できることが分かった。ただ、電線地上高を増加させる必要はあった。

 更に、220KV用の設備に更新した1回線約40Kmの区間を営業運転から切り離して、ロサンゼルス郊外のイーグルロック変電所から240〜280KVを5ヶ月間にわたり試験充電し、220KV運転が支障なく行えることを確認した。






 なお、起点のNo1、No2発電所、および終点のイーグルロック変電所では、経済的観点から構内の150KV設備をそのまま使用することにしたため、引き出しおよび引き込み箇所には150KV対220KVオートトランスを設置した。(右写真)
<工事の基本計画>

 さて、具体的な設備改造工事であるが、大きく分けて二つの工事を行った。

 一つは、各がいし連に2個のがいしを追加すると共に、シールドリングを取り付ける工事であった。
 二つめは、電線地上高を220KV対応に嵩上げする工事であった。

 前者の工事は、活線ではできないが、後者の工事が活線で出来る箇所は、極力停電なしで行うこととした。

 これらの工事を行う前提として、停止で行う工事区間を極力短くして、送電損失の増加と電圧制御の不具合を回避させるため、系統構成を整えた。


 すなわち、こう長386Kmの線路を7区間に分けて、1工事区間をだいたい55Kmの長さになるようにした。

 このため、工事着手前に線路の中間にある既存の変電所に加え、1箇所の恒久開閉所を設け、さらに手動で開閉する仮の線路交差開閉設備を4箇所に設置し、約55Km間隔で2回線の接続及び区間開放・停電が自由に行えるようにした。

 右図は、ビッグクリーク線系統図で、左が発電所、右がロサンゼルス郊外のイーグルロック変電所である。

 仮の4箇所の線路交差開閉設備は図示していない。


 事前の検討から、がいし装置を改造するための工期は6ヶ月に設定した。

 工事期間中は、7区分された各区間の片回線を、順次停止させ作業を進めることとした。すなわち、工事区間以外の区間は正常な2回線運用が可能で、送電損失を最小限に止めた。
 一方、二番目の電線地上高を上げる工事は、停電期間を少なくするため活線で進めた。

 220KVに対応する電線地上高を確保するには、「電線の張力増加」、「鉄塔の割り入れ」、「鉄塔の嵩上げ」の3種類の方法が考えられたが、最も経済的で停電時間を最小限に出来る、鉄塔嵩上げ方法を採用した。

 具体的には、既設の8.3mの標準的な地上高の代わりに、「鉄道委員会」の規定に則り常時最低地上高10mを確保するため、大部分の鉄塔の高さを1.7m〜7m増やすことになった。
 (注:当時のアメリカ、カリフォルニア州の送電線設置規則は「鉄道委員会(Railroad Commission)」の規定に基づいていたようである)


<具体的工事工法>

 まず、鉄塔の嵩上げに際しては、基礎材と接続された鉄塔脚部を地際で切り離し、必要な高さに鉄塔を引き上げて、空いた鉄塔最下部に新規の結構部材を挿入する工法を採用した。

 この工法で、既設の基礎をそのまま用いる場合には、嵩上げに伴う荷重増加に対しても十分耐力があり、既設改造なしに利用できることが分かったので、鉄塔最下部に新しく挿入する結構は、テーパー(主柱材の転び)をつけないで垂直にして、既設の基礎立ち上がり材にそのまま接続できる形状にした。

 また、嵩上げ工事は特殊箇所を除き活線状態で行った。

 嵩上げ装置は、4本の鉄柱を各脚に隣接して設置し、それぞれのポストを持ち上げるため、「3tonの差動引き上げ装置(differential hoist)」を取付け、鉄塔を浮かせた状態で最下部に結構を挿入する工法とした。

 作業員は、4人の一級組立工 、4人の二級組立工、4人の地上勤務者、トラック運転手と職長で構成され、1班14名を標準的班構成とした。

 最も早く作業した記録は、嵩上げ装置を最後の鉄塔で夜になりそのまま置き残すという状況で、10時間で7基の鉄塔を嵩上げしボルト締めした。

 これは、がいし増結工事と同じで、鉄塔への近付きやすさがスピードを決定する最も大きい要因だった。


 右上の写真は、まさに鉄塔引き上げを開始する直前の状況である。

 写真に見るように、4脚各脚毎にベテラン組立工が配置され、お互いに連絡を密にして、タイミング良く鉄塔が傾かないようにバランスを取って鉄塔を引き上げた。




 次に、がいし装置の工事であるが、懸垂箇所は電線を仮上げして2個のがいしを増結し、シールドリングを設置することで完成するが、耐張装置では増結したがいし長の分だけ引留クランプをずらして留め、ジャンパ線両端に同一の長さ分だけ電線を足し、新しいジャンパを形成した。

 右の写真は、がいし工事作業中の状況である。右側鉄塔は既に工事が完成して運用中である。

 アクセスが容易であった地域では、引留鉄塔のがいし工事のための作業員は、6人の一級電工(towerman)、3人の二級電工、3人の地上作業者、トラック運転手と職長の合計14名で標準的に1班を構成した。

 鉄塔に到着し、作業を完了させて去る準備ができる時まで費やされた最小時間は1時間15分であった。



 がいし増結とシールドリングを設置する工事は、およそ70人の現場作業員により、予定通り6カ月の期間に達成された。

 また、鉄塔嵩上げ工事は、6ヶ月間の期間でおよそ1,400基の鉄塔について、およそ平均して4班、あるいは平均で約80人現場作業員を動員して実施され、完成までに約1年かかった。


 以上のような昇圧のための改造工事を、1年以上かけて完成させ、1923年(大正12年)5月6日午前6時12分、世界記録の220KV超高圧送電が開始された。

ビッグクリーク線ルート情報追記:2010.12.17)
 本送電線は、1913年に150kV送電線として誕生し、10年後の1923年に220kVに昇圧・リニューアルされた設備である。

 したがって、150kV設備として建設されてから2010年現在で100年弱を経過しており、その間の電力需給環境の大きな変化の波に遭遇してその設備は大部分が改修されているのではないかと思っていた。

 そこで、起点の発電所から、終点のロサンゼルス北部の変電所の間を、詳細地図および「Google earth」等で綿密に調べてみた。

 その結果、ロサンゼルス市街化の進展により地域環境が激変した終点変電所近傍のルート約60km部分を除き、ほぼ全線にわたり当初のルートでかつ当初設備の鉄塔が現存していることが分かった。

 約100年前に建設された古い設備が大切に維持管理・運用されていることは誠に素晴らしいことだ。

 鉄塔と電線は昔のままの設備のようだが、がいし装置についてはシールドリングが取り外され、がいしも最近の製品に交換されているようだ。

 確認作業で威力を発揮したのは、「Google earth」が採用している「Street view」であった。

 すなわち、送電線ルートと交差している道路上で撮影された「Street view」を見ると鉄塔形状が分かり、当初設備の嵩上げ鉄塔が写っていて約100年前に建設された当初設備が脈々と運用されているのが確認できた。


 
Street viewで確認した地点は多数あるが、北から南へ4地点を選んで掲げるとその地点の座標(北緯、西経を表す座標)は下記の通りである。

● 
36 37 53.90 N 119 18 18.57 W (4地点の内で最も写真解像度がよい)
● 35 14 16.16 N 118 55 22.55 W
● 
35 10 40.17 N 118 54 52.38 W

 上記座標地点を手動で探すのは大変だが、「Google earth」の検索窓に、例えば最初の地点の場合、
「北緯 36°37′53.90″西経 119°18′18.57″」を表す上記の「36 37 53.90 N 119 18 18.57 W
の座標文字列をコピーして貼り付けると、自動的にその地点に導いてくれるので試していただきたい。

 そこで、「Street view」をクリックすると解像度は良くないがビッグクリーク線鉄塔写真を見ることができる。

 なお、2013年までは、下記地点も建設当初の鉄塔が建っていたが、2014年現在ではコンクリート柱の送電線に建て替えられて昔の鉄塔は見られなくなってしまった。
 誠に残念である。
● 36 23 07.16 N 119 14 32.64 W


エピローグ(その後のビッグクリーク開発とピットリバー送電線)
 ピットリバー送電線


 実は、シエラネバダ山脈の最も北側に位置するピット川(Pit river)で、パシフィック・ガス電気会社(Pacific Gas & ElectricCompany)が大容量の水力発電所を複数建設しており、この電力をサンフランシスコなどに送電するため、既に110KV送電線を運用していたが、新規開発に合わせ、ビッグクリーク線と同様の220KV長距離送電線を全く同じ時期に建設していた。

 このピットリバー線は、ビッグクリーク線とは異なり、最初から220KV設計の送電線で、山岳部はビッグクリーク線と同様の1回線水平配列2ルートの送電線(右写真)であるが、大部分は2回線垂直配列の送電線であった。



 当初のこう長は、サクラメントの南西まで323Kmで、将来第2段階でサンノゼ付近まで延長し、こう長が440Kmになる計画であった。
(前掲カリフォルニア地図参照)

 この220KVピットリバー線は、1922年秋には殆どの区間で完成していたものの、山岳部で一部未完成の区間があったため、ビッグクリーク線よりも完成が2〜3ヵ月遅れて、世界初の栄誉を逃してしまった。




 右の写真は、丘陵・平野地帯のルートに使用した、オフセットなしの2回線垂直配列・懸垂鉄塔を撮ったものである



 右の図は、左側が丘陵・平野地帯のルートに使用した、オフセットなしの2回線垂直配列鉄塔図、右側が山岳地帯に使用した1回線水平配列鉄塔図である。

 寸法単位はフィートである。

 電線は、2回線垂直配列区間ではHDCC 250mu、また1回線水平配列区間ではACSR 263muを使用している。





 当時は、200kVを超える超高圧のがいし設計については、米国各所の研究機関で研究を進めていたが、試行錯誤の時代であり、懸垂がいし連に使用する懸垂がいしの種類と配列については研究途上であった。

 当時の最先端技術者が提案した典型的ながいし装置が本送電線に適用されたもので、右図に示すように10inch(250mm)標準懸垂がいしと大型深ひだがいし等を組み合わせた特殊な組合せを採用しているのが大きな特徴である。

 すなわち、アース側9個は10inch(250mm)標準懸垂がいしを使用しているが、電線側については「深ひだ2枚の10inch」と「深ひだ2枚の14inch」をそれぞれ2個ずつ使用し、更に銅板で作ったカバーを被せた10inch標準懸垂がいし1個を使用している。

 この最下部のがいしは、直径16inchの銅板でカバーされておりその効果については、その下面が降雨時に雨に濡れないので絶縁耐力を低下させない効果があること、およびがいし間でのより良い電圧分布に貢献するとの考えで採用された。

 がいし連の長さは約2mであり、その閃洛電圧は500kVであった。




(2010.06.01追加掲載:懸垂鉄塔写真1点)

 約90年前に完成した本送電線の設備が現在も撤去されずに運用されているかどうか、半信半疑で当時のルートと思われる現地を2010年5月下旬に訪れたところ、ほぼ当時の設計と同一の鉄塔を見つけることができた。

 すなわち、サンフランシスコ中心から直線距離で東北東約60kmの地点、ピッツバーグ(Pittsbrug)とオークレー(Oakly)の中間にあるアンティオック(Antioch)地区で、南北に経過している本送電線を見つけて撮影することができた。(撮影期日:2010.05.26)

 鉄塔形状(構造)は、昇降ハシゴを含め当初設計とほとんど同一で、約90年前に建設された当初設備と思われる。

 がいし装置は最近の設備に更新されており、一連個数は当初は下記の通り特殊がいしを含め14個だったのが、現在では耐霧がいし15個+標準的懸垂がいし1個の計16個となっている。

 架空地線は当初から無いようで、現在も設置されていない。

 このように約90年前の送電線路設備がいまだに健在で運用されているのを見て、清々しい気持ちになった。



 (2010.08.10追加掲載:耐張鉄塔写真1点)

 右写真は220KVピットリバー線の耐張鉄塔である。
 (撮影は上記と同じ期日:2010.05.26)

 がいしは標準懸垂がいしを使用しており一連個数は24個であり、懸垂型がいし装置の耐霧がいし16個に対して8個多い。

 


 本送電線がピットリバー発電所からヴァレホに向かって南下する途中に、Amtrakと交差するがそれを車窓から撮影したものである。

 見えたのは通過する一瞬であつたが、後で写真をよく見てみると、建設当初の設備がそのまま使用されていて現在でも活躍していることが確認できた。

 径間長は約250mで、線路幅は上図の通り24フィート・8mである。

 (撮影は上記の前日:2010.05.25)


 このように、カリフォルニア州では、北部と南部で殆ど同時に世界初の220KV送電線が完成し、超高圧送電で世界をリードすることとなった

 その後のビッグクリークプロジェクト
 
 1923年にビッグクリーク線が運用開始して、すぐその後に続く開発プロジェクトの進展に先行して1927年(昭和2年)に2番目の220KV送電線「ヴィンセント(Vincent)線」がロサンゼルスまでの全線で完成した。

 引き続き1928年には、No2A発電所が完成した。


 しかし、直後の1929年に起こった大恐慌により開発プロジェクトは殆ど停滞せざるを得なかった。

 さらに、この大恐慌対策として連邦政府がコロラド川に建設した有名なフーバーダムの発電電力を購入することになった。
 この電力は、サザン・カリフォルニア・エジソン会社にとっては十分すぎる容量で、ビッグクリークプロジェクトを進めることは当面必要なくなった。

 しかし、第二次大戦が終わった後の1948年にいたり、再びプロジェクトを進める環境が整いNo3発電所の発電機増強工事を皮切りに、No4発電所の建設が進められ、1951年に完成すると同時に、第3番目の220KV送電線が2年の歳月を費やし、1951年(昭和26年)に竣工した。

 続いて、当初の計画にはなかったが、ビッグクリークで最も標高の高い2,300mの位置に、少しでも水の有効利用を図るため10,000KWの小さなポータル(Portal)と命名された発電所を1956年に完成させた。

 また、ジョン・イーストウッドの初期計画ではNo7発電所が出来る予定の箇所にマンモス・プール(Mommoth Pool)と名付けた発電所が1960年に完成した。

 最終的には、バルサム・メドウ計画(Balsam Meadow Project)として進めた揚水式地下式発電所が、1987年(昭和62年)に完成したが、ビッグクリークプロジェクトを立案した歴史的人物ジョン・イーストウッドの栄誉を称え、ジョン・イーストウッド発電所(John.S.Eastwood Power Station)と命名され、これが最後の発電所となり、1910年に開始されたビッグクリークプロジェクトは、かくして完了した。

 この計画を作ったジョン・イーストウッドのビッグクリークプロジェクトは、広大なサイト全体に18の発電所を建設し、その出力は146万KWになるものであったが、それから80年以上たった1980年代の末には、自然環境保護の高まりによる許認可の困難さ、石油火力発電の効率性の向上による水力開発の有利性の見直しなど、その他いろいろな理由があって、水力発電開発を取り巻く大きな環境変化の波により、まだある開発地点を残してこの計画は完了することになった。

 ただ、既設設備の老朽化による設備更新、および最新の技術による設備改良・改善についてはその後も「BiCEP」と命名されたプロジェクトが進められ、50万KWの出力増加が図られた。

 従って、1986年時点の8発電所(No1,No2,No2A,No3,No4,No8,Portal,Mommoth Pool)に設置された22基の発電機による出力約80万kWに、ジョン・イーストウッド発電所の20万KWを加え、更に設備改良による増分出力約50万KWを加えて、最終的には総出力は約150万KWとなった。
 これはジョン・イーストウッドのビッグクリーク開発計画に対し、発電所の数では半分の9箇所にとどまったものの、総発電力では彼の計画を凌駕したこととなった。



 このビッグクリークプロジェクトは、公益のために民間企業が資金調達し完成させた計画として、世界で最も大規模なものであり、永遠の記録に残るものとなった。
参考文献
・Electrical World 1923〜1924 における関連記事
・電気之友第892号に掲載された記事「送電電圧上昇歴史および理論」
・電力の歴史 Thomas Parke Hughes 著 市場泰男訳 平凡社
・The story of Big Creek David.H.Redinger著  Trans-Anglo Books
・Internet Site: http://www.sierrapacktrip.com/bigcreek.html


世界初の複導体送電線誕生の物語
A story of the world's first bundule conductors power transmission line birth

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